ハード・ロハス

スロウライフ・スピードスタイル

人生の輝きと、王女の夢と、STi

「どんなにひどい一日でも、子どもが眠りにつくときだけは、王子や王女みたいに扱わないといけない。いい夢がみれるようにね」
 僕がそう言って、ぐっすり寝入っている娘を叩き起こすのを、妻はなかば感心し、なかばそれでいいのだろうかという目で見ていた。
 その晩、僕と妻は『ミリオンダラー・ベイビー』という静謐な映画を観ていた。女ボクシングの話で静謐というのも変だが、微かな音に耳を傾けるように観ることが必要な映画だった。
 人は一生のうちで一瞬でも輝く瞬間さえあれば幸せだったといえるのかというテーマはめずらしくはない。この映画は、それに加えて、一瞬だけの輝きに、はからずも付き合わされることになった周囲の人たちは幸せだったのかというものを淡く投げかける視点に出色を感じた。
 僕らが没頭しすぎて、娘は退屈そうにいろいろチョッカイをだしたり気を引こうとしていたが、ちょっと邪険にしているうちに、
「この映画、時計の5のところまで終わらないんだろうなぁ」
 と、ため息まじりに言った。実際には映画は時計の長針が3のところで終わった。数分だったのに、すでに娘は眠っていた。
 僕は悔いた。どんなひどい一日だったとしても、眠っているあいだの子どもはいい夢をみなければならない。そのためには、なかなかかまってやれなくても少なくとも眠りにつく瞬間だけは王女のように扱うことを日々心がけていたのだが、不覚なことにも、無視されたまま寝入ってしまった娘の夢がどうなるのかを考えると、たまらず叩き起こす蛮行にでてしまったのだ。
 30分後、娘は王女のように眠りについた。
 翌日の娘はとても上機嫌だったから、きっといい夢をみることができたのだと思うが、妻の方はちょっと違っていた。年代も近い女優の本田美奈子が骨髄性白血病で急逝した報の衝撃と、『ミリオンダラー・ベイビー』の「人生一瞬の輝き」効果が攪拌されて、この日の彼女は朝から変だった。
 サイクリングの途中ではじめて通りかかった道で見つけたスバル中古車ディーラーの前ではたと停まった妻は、店先にあった一台の中古車をじっと見ていた。両脇にある新型や年式違いには脇目も振らず、ただその一台を見ていた。
「ぱーまっちょがーる、どうしたの?」と娘が僕に耳打ちする。「ぱーまっちょがーる」とは娘と僕のあいだだけの妻の呼称だ。
「わからん。ほしくなったんだろうか?」
「でも、うちのと同じクルマだよ」
 確かに今乗っているインプレッサとまったく同じ年式、同じ色、同じ形だ。しかし僕にとっては、
「大違い。星がついてない」
「星がないとかっこよくないね」
 そんな僕らの会話をよそに、妻はドアを開いて運転席にすわった。
「ぱーまっちょがーる、走るのかな?」
「動かないよ」
 そのとき、娘が肌身離さずもっている<たまごっち>のアラームが鳴った。
「たいへんたいへん! これやって!」
 たまごっちのお見合いだった。このとき、なんとなく予感はした。
 妻は「輝きだわ」という言葉を残して、ずんずん店内に入っていった。30分もたたないうちに、下取りとローンを組んでそのクルマ、つまりインプレッサWRX2.0STiの契約書を握っていた。
「星、なくなっちゃうの?」娘は真剣に心配していた。もちろん僕もそうだった。ふたりとも星がついているクルマが大好きなのだ。妻は、
「だいじょうぶ。いつかちゃんと星はつける。お金ためてね。がんばるよ」
 衝動買いなんてものじゃなかった。はじめて通りかかっただけの店だし、僕自身、買い替えとかそんな話題は聞いたこともない。ディーラーの担当者も、僕と娘がぽやーんと無関心なので、妻の気まぐれなひやかしぐらいに思っていたのか、
「下取り額の交渉とか細かいことは煮詰めのときに」
「もう煮詰めの話です。人生は短かいの。いい夢をみなきゃ」
 とか、この日の妻は完全に突き抜けていた。しかし確かに彼女の言うとおり、大人の女だって眠るときは、いい夢をみるべきなんだろう。男は昼間でも夢みていることだし。

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