ハード・ロハス

スロウライフ・スピードスタイル

ブルベリの小さな奇跡

 パパさんから聞いた話である。
 先日、パパさんは十数年ぶりに昔の同僚Sさんと会った。
「あれ、Sさん。メガネは?」
 Sさんは入省したころ、つまり20代の時点ですでに強度の近眼のため、ずっとメガネをかけていた。ひと時代が過ぎ、退職したパパさんが最後に会ったときもそうだった。Sさんはちょっと照れ笑いをしながら、いやぁなにそれがね、と言った。
「かみさんが死んでから、暇やし退屈やし、毎日ブルーベリーをぽりぽりやっとったら、なんや治てしもうたんですわ」
 Sさんが言うには、ついでに老眼まで治ってしまった。自動車免許も、書き替えのときに条件欄の「眼鏡等」の表記がなくなった。
 さて、この話で僕が興味を持ったのは、ブルベリーの効能について以外のところにある。ブルーベリーに限らず、メシマコブやウコン、アガリスクやら何やらとその手の話はあちこちの広告にあふれている。もちろん効能はあるのだろうが、聖人がもたらす奇跡みたいな体験談がならんでいると、なぜか嘘くさく感じる。おそらくいくつかは本当の話に違いない。しかし、本当の話でも、ある決まった定型内の文章として納まると、うさんくささが漂いはじめる。かえって思いきったつりく話の方が、文章的リアリテを出すのはたやすかったりする。本当の話を本当らしく書くのは、じつはけっこうたいへんなことだ。
 さて、Sさんの話はパパさんからのまた聞きだったにもかかわらず、なぜか分からないがものすごいリアリテを感じてしまった僕は、目を閉じ、理由を考えた。みじかい話である。行き着くところは、ここしかない。
 
「かみさんが死んでから退屈だった」
 
 ブルーベリーで目が奇跡的に治ることは、ただの単一の「事実」である。この点を強調しようとすればするほど事実のリアリテは逃げていく。ここで注目すべきは、「かみさんが死んでから退屈」という一見無関係な事実を組み合わせたことにある。この世の中で、「かみさんが死んだ」→「ブルーベリーを毎日食べる」という難易度の高い組み技を思いつく人間がいったい何人いるだろうか。まさにこの瞬間、「ブルーベリーで目が治った」というきわめてうさんくささ満点の商業的ディスクール(叙述)は、一片のポエムとなったのである。世俗的コマーシャリズムと文学的ポエジーとを截然と分かつ分水嶺の頂に、死んだかみさんがぽつんと佇んでいる。
 もしかしたらSさんの目に奇跡を起こしたのは、ブルベリではなく、死んだかみさんなのかもしれない、そんな淡いファンタジーが、われわれの胸に小さな灯火(ともしび)をつぐのかもしれない。