ハード・ロハス

スロウライフ・スピードスタイル

ザックリやってしまった

 断面。
 直線的な断面。とつじょ、自分の身体に現出し直線的な断面を見て、僕はなかば気を失ないかけた。
 そのとき僕はコップを洗っていた。いつもより、ちょっと力んでいたかもしれない。
 バシュッという音。その瞬間、まさにコップが割れた瞬間だったのだが、僕の目にまず映ったのは、直線的な断面だった。曲面だけで構成されている人体に、とつじょ現れた幾何学的ともいえる完璧な直線。割れたガラスが一瞬にして削ぎ落とした指先に現れた直線的な断層に、僕の目は釘付けになった。
 通常、こういう切り傷から血がにじみだすのは、時間がかかる。主夫生活二年の今、なにかのひょうしに手を切った経験は二度、三度ではないから分かる。まず断面は白くなり、じっと見つめているうちに痛みもなく、そのうち申しわけなさそうに血がぢんぢんとにじんでくるのだ。
 しかし、今回はそうではなかった。親指の頭を構成する曲面、その三分の一にあたる丘陵が、ごっそりスライドして、はずれた。中国人の帽子のように、親指の先がプラモデルのパーツのように、ドーム型の先端がすっぱり削ぎ落とされた。血はにじむというより、噴き出した。血の噴出もさながら、その断面のあまりの直線的なこと! 僕はその直線に目を奪われた。
 二分後、僕はゆかに倒れていた。
 吐き気、全身から湧出するたえまない汗。トライアスロンでも、一瞬にしてこれだけの汗をかいたことはない。
 部屋には小学三年の娘しかいない。視野がせばまる。気を失う、と思ったとき、パニックに陥り泣き惑う娘の姿が目に浮かんだ。
 僕はきわめて軟弱な自分の性質をよく知っていたので、指先のケガごときで、と自分に言い聞かせつづけていたのだが、せばまりつづける視野の恐怖に、つい娘に、息もたえだえにこう頼んだたのだった。
「救急車!」
 娘はきわめて冷静に119番をし、電話の対応をしていた。
 ふだんの頼りない娘とは思えない一面を見た。状況を伝え、住所を一語一語正確に口にする娘を見ているうちに、あるいはその気丈さが僕に勇気を与えたのか、しだいに動悸がおさまってきた。指先ごときで救急車を呼んだ恥じらいが急に高まり、娘に電話をかわってもらった。
 受話器を娘に持ってもらったまま、僕は状況を伝えた。
「気絶しそうになったのは、精神的なショックですよ。若い女の子なんかがよくなります。だいじょうぶですよ。」
 そう言われ、屈辱も感じる暇もないまま、なさけないことに、僕はだいぶ安心して、落ち着きを取りもどしつつあった。とりあえず救急車はいらないから、どうしたらいいかを訪ね、その指示に従った。
 ふたたび電話をかわった娘が近くの救急病院の電話番号を訊いて、そこに改めて電話していた。そのしっかりした応対と気丈さに勇気づけられた。
 かさねて恥をしのんで言うが、救急病院は、うちから歩いて2分ほどのところにある。しかし、気を失ないかけていたときには、そこまで歩くことが大西洋を横断するぐらいに困難なことに思われたのだ。と同時に、救急車を呼ばなくてよかったと心から思った。すっかり安堵して、娘に「だいじょうぶ?」と言われながら救急病院に歩いていくときには、煙草を吸っていたぐらいだ。
 病院では、縫合の準備を看護婦が進めていたが、現れた外科医は感心したように看護婦にこう言った。
「ほら、見てごらん。カンペキにくっついてるよ。ほんと、ちゃーんと、このままくっつちゃうことがあるんだな。」
 ガラスで一瞬にして切り裂いた断面は、あまりにカンペキだった。その中国人の帽子のようなキャップをはずすと、血が噴き出す。(医師の言葉では、小さい動脈が切れてる、とのことだ)
 しかし、キャップのような切除部分を切り口にはめると、あまりにぴったりと合わさって、出血はおろか、切断された神経さえもだまされて、こわいぐらい痛みも感じない。こわいぐらい痛みも感じない、というのは、じっさい僕が医師に言った言葉だ。
 医師は縫合を選択しなかった。
 圧をかけてこのまま、削ぎ落ちたキャップをかぶせておく処置を選んだ。
「ただし」彼は言った。「7割の確率でこのまま何ごともなかったかのようにくっつくと思う。けど、黒くなったら、腐ったと思ってあきらめて。でも時間がたてば下からちゃんと肉が盛り上がってくるから。それと、黒じゃなくて、赤くなったらバイキンが入っちゃったということだから、ちょっと病院に通ってくれる? 処置があるから。」
 スタンダールではないがい、赤か黒か、あるいは白か?
 包帯を巻いてもらい、病院を出ようとしたとき、僕の指先を見て医師が看護婦に言った。
「ちゃんと圧かけた?」
 看護婦は、ちょっと微妙な返事をする。医師はその自信のなさを鋭く感じ取って、やり直しを指示した。
「包帯じゃ、圧かからないよ。ほら、あの変なテープで圧かけて。」
 やり直しのため部屋にもどった看護婦は僕の手をとりながら、こうですか? 手を動かしながら不安そうに医師の目を見る。
「そうそう、おみごと! おっしゃる通り!」
 そう言いながら背中を向けて部屋を出ていこうとしていた医師だったが、その医師の言いかたがおもしろかったのか、娘がおっしゃるとおりと褒められた看護婦にむかって、
「おねーさん、アタマいいんだねー」
 と口ばしった。
 ちょっと照れた看護婦は手を振りながら医師を指さし、わたしなんか、あの先生はもっともっと、すごくアタマいいんだよ、トウダイの先生なんだよ、と言った。
 娘は、えー、おとうさんもトウダイだよ。
 処置室を出るところだった医師は振りむき、もどってきて僕の前にすわった。
 年代が近かったこともあって、学生時代の話に小さな花が咲いた。
 医師はふだんは東大病院に勤務しているそうだが、水曜日だけ、小田原に来ているそうだ。彼の言葉を借りると、「食っていけないので、アルバイトに来てるんだ。」
「で、あなたは何をしてるの?」
「はあ、僕はちょうど学部も職種もちょうどホリエ君の先輩にあたるんですが、彼とは違って、ここ(小田原)で逮捕されずに小さくやってます」
 彼はひとしきり笑って、そうそう、目立たないのがイチバンと言って、また笑った。
 あれから二日たつが、まったく痛みも出血もない。包帯を解いていないので、中がどうなっているかは分からないが、動脈も神経も、うまくだまされたのかもしれない。何ごともなかったかのように。
 さて、明日は病院に行く。
 赤か、黒か、あるいは白か?